豫州真鍋氏宗家過去帳より

 今回静岡にお住まいの全国まなべ会理事・静岡まなべ会会長の真鍋梅美女史より、「豫州真鍋氏宗家過去帳」をお借りし拝見することができました。
 そこで内容の一端を掲載いたします。
 
   原文には句読点がありませんので、勝手に付けさせていただきました。

 この過去帳の結びに、次の記述がされています。

 追記
 豫州真鍋氏宗家の系図は、十五代の治平時代の明治初期までは宗家に存したるに、そのころ盗難にあいて紛失し、爾来家には存せざる由を本過去帳継嗣者が少年時代祖父並びに父より聴き及びおれり。
 さきに筆者が初代真鍋近江守孝綱以降の家史を具に調査研究し、以て昭和四十二年「豫州真鍋氏」を刊行せしが、その後調査したる慈眼寺の過去帳と同寺背後の宗家の墓所並びに持庵中村の観音堂の墓所の各碑を参照するなどによって本過去帳を調整したるものなり。                     
 各代の事蹟等については、簡記に留む。前記拙著「豫州真鍋氏」参照せられよ。
 初代孝綱の出自については猶調査中にして、最近に至り尽力なる考証資料を得らるるにあらずやとの望みを生ず。
       昭和五十一年七月
                      第十六代梅治二男
                                越智 栄次郎
                                     

 

  豫州真鍋氏宗家過去帳

    家紋 隅切角に五三の桐
         当初は井桁に橘なりしも、四代兼信の時五三の桐に改む。
         兼信の弟忠綱金子村に分家し、伝統の橘を用い今日に至る。
    氏神 瀧神社   新居浜市金子
    氏寺 慈眼寺   新居浜市金子
    宗旨 禅宗(曹洞宗)
    自庵 観音堂   新居浜市中村

  初代    近江守孝綱

             中村殿 領 中村並びに近隣村々
           春江院殿日峰恵照大禅定門     
             弘治二丙辰二月三日没

  真鍋城

 中村に在り土居構の城なり。真鍋近江守孝綱という者近江国より来る。この地の地頭となり当城に於て弘治二丙辰年死す。その子佐渡守家綱、右京亮兼孝、勘解由行綱等連綿たり。天正中兼綱の子兼信を金子の養子として長宗我部の質とす、その後兼信土州より帰り加藤嘉明に仕え新居郡の治務を行うとその家譜に見えたり。是れ 新居郡大庄屋の始めにて、寛延の頃まで百三十年余、代々これを勤むと云う。
 後追々栄えて巨富に至り、寛文より元禄に至るまで御用銀を上したる数千貫に近し、他国諸侯への取り替えも亦不少。
 加藤左馬介殿長州毛利候当国一柳家より拝領の品数々あり。以下略 (西条誌、伊予温故録等より)

 孝綱の女は金子十郎元成に嫁し、その長子伝兵衛元宅は父元成の後を嗣ぎ金子城主となる。
土佐の長宗我部元親との盟約により天正十三年七月新居宇摩両郡内の諸城主を糾合し、氷見の高尾城に拠って羽柴秀吉の四国征討軍 毛利勢小早川隆景、吉川元長両川の大軍と戦い、高尾城落ち七月十七日野々市原に於いて討ち死にす。
 この戦いにて
   初代孝綱の長子  中村殿    佐渡守家綱
   同      次男  松木殿    右京亮兼孝
   同      三男  東屋敷殿  勘解由行綱
   右  行綱の長子          越後助政綱
   右  政綱の長子          孫九郎亮綱
           次子             孫十郎  
        ら一族七人討死にす。

 真鍋氏の氏寺慈眼寺本堂背後の山の螢域に、城主元宅を中央に真鍋六人衆の五輪の碑あり。
 当時 小早川隆景は嘗て交友のあった金子元宅の討死並びに彼我多数の将兵の死を悼み、その冥福を祈願供養してこの野々市原に薨る。元宅の碑と千人塚、今もこの野々市原に在り。
 前記慈眼寺本堂背後の螢域は、四代与右衛門兼信とその弟久右衛門忠綱ら真鍋一族によって寺と共に建立したものなり。

 二代     佐渡守家綱


             中村殿  初代孝綱長子
        法性院殿無屋ト相大禅定門
            天正13年乙酉年7月17日 高尾にて討死
 


 三代     孫太郎兼綱      



                 次代家綱次子
        
龍泉院刀奄雙剣禅定門 
            天正13年乙酉年7月17日 高尾にて討死
         室 金子元信(十郎元成の弟)の女

 元亀の頃、阿波三好氏老臣篠原駟雲に迎えられて家中に弓を教ゆ。元亀3年篠原駟雲討死にしたるにより、伊予中村に移る。
後世阿波国に真鍋流の弓術を残せり。阿波国徴故雑抄
 天正13年7月高尾城攻防戦に於ける兼綱の活躍は、「天正陣実記」「澄水記」等の軍記物にも詳しく叙述されおるが、攻め手の毛利勢においても抜群の勇士として、かねてより著聞せられあり。故にその討死にについて、次の文書あり。

   「萩藩閥閲録 巻六九  所収に

        今度豫州表隆景様就御渡海到御供候
        然者御方儀上様以御意同陣仕本望外
        殊高尾之城御取詰之時初中後被入御精彼城被切崩外
        付真鍋孫太郎討取外御功名之段無比類存候
        併御冥加之至候此趣具公儀可申上外重々可申承偽
                                   恐々謹言
              十月十四日
                                善九郎通平  判
                                    口羽  氏
          児玉四郎右衛門尉  殿
                     御陣所



  付記
 二代家綱長子 佐渡守安政は、天正陣の折金子城にて討死と伝承せられおり。これは金子城主金子伝兵衛元宅は新居・宇摩二郡の諸城主らと共に高尾城に籠もりたるため、金子城は城主元宅の弟 金子対馬守元春 並びに金子氏一族の一部と真鍋氏一族の中 中村殿佐渡守安政、松木殿右京亮兼孝(高尾で討死)の子 助右衛門兼昌、その子 宗兵衛兼之、 同苗 佐兵衛ら、外に飯尾・ 黒田・ 忽那・ 白石の諸氏その他によって守備したるも、七月十四日遂に落城し。その折 安政は金子元春らと共に討死したりと伝えられいるも、慈眼寺過去帳にも記録なく又その墓碑も見当たらず。
 案ずるに、天正十三年七月十四日 金子城落城の直前、城主元宅の子女四人(長女 かね女、次男 毘沙寿丸、三男 鍋千代、四男 新愛智丸)を守り、安政は金子城にて討ち死にせず、この一行に加わり土佐に逃れたるものならんか。討死を免れたる金子一族の一部と前記真鍋氏も兼昌、兼之らが長宗我部を頼って土佐に落ち延びた史実あり。然れども 兼昌・兼之らの事跡は土佐に残れるも、安政の事跡は土佐になく。或いは 他に落ち延びたるか、その末路は不明なり。

      

 四代    与右衛門尉 兼信



                  三代兼綱長子
            源明院祐庵宗徳居士           
                  正保二乙酉年十一月二十六日没

           

            自閑見性大姉
                慶安五壬辰年八月十六日没
 
   

    

      兼信昔為金子元宅質事土州元親後帰旧領
      又事加藤嘉明為新居郡治是始大庄屋成

 

 天正六年金子城主金子元宅(兼信の父兼綱と従兄弟)の猶子となり、人質として土佐の元親の許に送らる。翌七年 元宅の長子専太郎と人質替え行われて、伊豫に帰る。
 兼信の祖父宗家二代家綱、父宗家三代兼綱並びに一族の松木殿兼孝、東屋敷殿行綱その子政綱又其の子孫九郎亮綱、孫十郎ら悉く高尾で討死。又金子城に籠りたる伯父安政は金子で討死とあり、同じく金子城に籠りたる松木殿兼孝の婿養子助右衛門兼昌その子宗兵衛兼之らは金子城主元宅の子女らと共に土佐に落ち延び、或いはその他の真鍋氏一族並びに松木藤田ら城主並びにその一族中討ち死にを免れたる人々も各地に四散してその勢力を跡に留めざりしようなるも、与右衛門兼信その弟久右衛門忠縁及び女一人の兄弟妹は年少の故にか天正陣にも参加せず、その戦禍より免れ。そして高尾、金子両城攻防戦に生き残りし旧臣らに守られて、○○したる真鍋氏の振興に精進せしものの如し。

 秀吉の統一後、兵農分離。一国一領主を基本とする政策が遂行され、新居郡地方は小早川隆景の領分となり。次いで福島正則、池田高祐、小川祐忠と頻繁に領主の交代あり、又関ヶ原合戦後徳川の時代に移りては、新居郡地方は松山城主加藤左馬介嘉明の領分となれり。
 群雄各地に割拠して騒然たる戦国時代を経て、漸く豊臣から徳川に移りたるも、短時日にして頻繁に交代を見たる領主と領民間に未だ融和の道もなく。且つ民心の安定するに至らず。ために民政上代官らの上意下達の威令も浸透せざる故に、行政の実効を挙げ難き恨みありたるにより、加藤嘉明はこれが打開策として領分内各村の長百姓、肝煎りらを統一して宣撫の実を挙げて民心の安定を図り、円滑なる年貢実収と領分の治安維持に当らしめんがため、各地に於て土着中より毛並みの良く且つ民心を収攬して民政に手腕を発揮為し得らるる器量人の選択に努め、新居郡に於いては真鍋与右衛門兼信を起用し漸く新居郡の民政を担当せしめたるものにして、これが後二十年後の元和七年制度として確立したる大庄屋役の前身となり、兼信は引き続き新居郡東○二十ケ村の大庄屋役を勤め。爾後代々大庄屋役を世襲し、九代孫九郎金郷に至り宝暦元年九月大庄屋役を拝辞するまで百三十四年間、大庄屋たりしその緒を開けるものなり。

          

                    

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