−阿波まなべ会会報 平成14年1月1日 第42号− から一部をご紹介します。
阿波池田の真鍋氏始祖の研究
阿波まなべ会事務局長
真 鍋 武 夫
「真鍋姓のルーツを調べる」
文献……文化六年「一八〇九年」先祖光の多重郎
「権次郎」氏が描き遺した覚書き「一冊の古文書」三
八枚より。
我等の先祖多重郎の覚え書きによれば「間鍋又四
郎」は尾張の国の家中「士族」が先年数年来の大乱
の砌、何の仕落ちもこれなく候哉、その上御知行召
し上げられ、浪人の暮らしと成りとある。
この事を「真鍋、間部一族の限定版」や「葵三代
記」より調べて見ると、又四郎の父の有り様を記し
たと考えられ、父親は詮則「アキノリ」と名乗り、
従兄弟の真鍋貞成「次郎四郎」と言う輩下の武士で
ある。「貞成は織田信長、豊臣秀吉に仕えて軍功多
く、文禄三年(一五九四年)には三千五百石取りの
上級武士、慶長四年(一五九九年)秀吉亡き後は、
名古屋城主福島正則の家中武士として仕えて、関ヶ
原の合戦で勝利した。その後徳川家康の計略にあい、
藩主正則侯は国替えと成り貞成氏も共に、安芸国の
広島城に入り、四千石の家中武士となって留まる。」
輩下の詮則は尾張に留まり、家康の三男忠吉が名古
屋城主に国替えと成る、この時、詮則は今までの御
知行を召し上げられ、お家断絶となり浪人となる。
この又四郎は明暦の棟付御帳によると、「一六五
七年」には禄高二十七石五斗と記されて、壱家又左
衛門(又四郎)五十七才とあり、万治三年(一六六
〇年)病死享年六十一才とある。この事を逆算して
みると又四郎の生まれは慶長五年(一六〇〇年)と
なり、関ヶ原の戦いの年の生まれとなり。争乱の中
の事のためか人別帳に記されず、又浪人の故か、記
帳漏れであったかと推定する。
間鍋又四郎は大阪夏の陣合戦も豊臣家滅亡とい
う事で収まり、明けて元和元年(一六一五年)元尾
張国主蜂須賀公が阿波の御国主に成って居ること
を知る。
尾張国で浪人の暮らしを残念に想い、元の尾張国
主大守様を慕いて、家来を召し連れ、徳島に着き、
城主様に自訴し御墨付きを与えられ、阿波の西部の
地の守りを許され、三好郡池田大西町の御免許町に
辿り着き、郡奉行中村若狭守様に御取り立て仕まる。
元和五年頃推定(一六二〇年)若狭守の配慮により、
当分の間の飯糧、普請木等相当な御手当を賜り下さ
れ、御仁心を受けるとある。
当分の間町人扱い、氏姓を改め、屋号を真鍋屋と
し名を又左衛門と改名す、と伝えている。真野家の
所蔵文献に明暦三年の棟付帳には、石高が二十七石
五斗、壱家又左衛門五十七才、長子弥次兵衛二十五
才、次子長助七才、と五子までと、下人四人が記さ
れている。
石高が特別に高い事が、何かの役目に付いていた
と想像することが出来る。
右記のことから、又左衛門の改名以前の、「間鍋」
の間の文字の「字の義」を考察する。「真鍋、間部
一族」の限定版、日本家系協会発行の武田光弘氏の
解説文献より「昭和六十一年」
一、藤原姓の真鍋、間部氏の本姓は、藤原北家山陰
流の旅裔なり、平安時代の末期より塩川氏を号し、
戦国時代後期に及びては、和泉に住まいし、これよ
り間鍋氏を号したり。
二、南畿の真鍋、間鍋氏は、三河の人塩川信行の遺
児、詮光が摂津の真鍋主馬兵衛に養育せられしこと、
主馬兵衛は元来が和泉国日根郡の豪族なりと伝え
ている。備中真鍋島出身の貞縄が、大内氏に仕えて
水軍の長となり、和泉に転じて淡輪浦に住まいせり
と、その本姓は藤原氏なりと言う。 右記一、二、
の系譜を調べる。
一、藤原鎌足を祖とする塩川信行(三郎兵衛)三二
代目は、三河の松平氏に仕えて、天文四年(一五三
五年)十二月牧野氏と戦いて討死す、妻は間鍋氏な
りとあり。
二、真鍋五郎右衛門貞縄の子孫五代目真鍋貞友「主
馬兵衛」の父貞行「内蔵助」に四人の男子この事を
考察してみる。
一、摂津の貞行の長女が、塩川信氏「伯耆守」の嫡
子信行「三郎兵衛」に輿入れ「婚姻」によることか
ら始まる。結婚後まもなく、三河の松平氏と遠江国
の牧野氏が争い戦いになる、天文四年、信行は松平
氏の旗下で参戦するも、敢え無く討ち死にしてしま
った。
信行の死により、父信氏は跡継ぎを失い、まだ幼
い弥九郎「詮光」に系を譲ることなく、次男満定
「山城守」に系を継がせることになり、弥九郎は母
と友に摂津の祖父のもとに帰り養育される。弥九郎
は従兄弟の貞友「主馬兵衛」同、右馬介、同貞成
「次郎四郎」同、清八郎等と共に成長する羽目とな
っている。
二、弥九郎は成人して、詮光「アキミツ」と名乗り
氏姓を改め塩川氏と真鍋氏のあいだの字を間を使
い「間鍋詮光」と改名して、貞友や貞成とは違った
姓を使っている。「同音異字」として混用せられる
事が系譜によって知る事が解る。
詮光は、織田信長に仕えて、間鍋刑部と名乗り、
天正十年六月「一五八二年」本能寺において、明智
光秀軍の策略にあい、織田信長軍等と共に討死にす
る。享年四十八才。
三、貞友「主馬兵衛」は織田信長に仕えて三千貫を
領し、天正三年木津川の戦いで討死。享年三十二才。
四、右馬介は、織田信長、豊巨秀吉に仕え、朝鮮に
て討死にす。享年五十一才。
五、貞成「次郎四郎」は、織田信長、豊臣秀吉に仕
えて軍功多く、文禄三年禄高三千五百石与えられる。
その後豊臣秀吉亡き後、名古屋城主福島正則侯に仕
えて、関ヶ原の合戦で勝利のあと、家康侯戦勝采配
によって、家康の三男忠吉侯を名古屋城主に国替え
と成り、福島正則侯は安芸の広島城主に国替えとな
る。
貞成も正則侯に従いて移り、石高四千石を与えら
れる。
その後福島正則侯亡きあと、紀州和歌山城主の徳
川頼宣に仕えて、四千石を知行せりと、改名して、
入道真入斎と改める。明暦二年十月病死享年八十九
才。
六、清八郎は、兄貞成の旗下で、関ヶ原合戦に従事
するも敢え無く討死にせりと。
間鍋刑部詮光の嫡男詮則は伯父貞成の旗下で従事
す。合戦が終って、清八郎の討死となり、死後の弔
い等のことで、尾張に留まっていた。暫く過ぎると
城主の国替えによって、徳川忠吉侯が名古屋城主と
なり、詮則は今までの知行を召し上げられ、御家断
絶となり浪人となる。「何の仕落(恩賞)もなく候
哉」と嘆いている。「又、男四人育てるにまま成ら
ず也。」
詮則浪人には嫡男詮吉「彦兵衛」次男詮清「刑
部」三男清貞「九右衛門」四男又四郎の子あり。
1、次男、詮清「刑部」を伊勢国の星野家の養子、
跡継ぎ、その後、江戸に移り住む。寛文十年七月、
享年八十才にて没せりと。
2、三男、清貞「九右衛門」は、甲府の国に赴き、
西田家の跡継ぎ、西田清貞「九右衛門」と改姓、嫡
子、善兵衛、孫、詮房、詮貞、詮之、詮衡、詮言、
五人の男子と女子二人の養育をともにせり。
清貞の孫、詮房「右京」は、六代将軍、家宣公に
召し出され、従五位下、越前守一万石を領し又、従
四位下に進みて、老中格になりて、上野高崎城主、
五萬石の藩主、氏姓を改め、間鍋姓に戻し、兄弟四
人にも間鍋氏を使った。その後、氏姓を問部に改め
るとある。
尾張の国から来たと言う、我等の先祖、間鍋又四
郎は、浪人に成りし、父、詮則、兄、詮吉と共に、
尾張国で育てられ、月日も過ぎ、父の死、又詮吉の
亡き後、大阪夏の陣合戦も終リ「元和元年(一六一
五年)元の尾張国の大守、蜂須賀「彦左衛門」候の
嫡子、正勝公が、阿波の国に国替えに成っている事
を知り、「浪人の暮らしに焦りを感じて、阿波に往
き士官を志し」聞けば、阿波国は、温暖な良き処と
知り、浪人の暮らし儘成らず、阿波国の在処を尋ね、
家来を連れて徳島に着き、藩主公に自訴、御墨付を
賜り、西部地域の守護を伝えられ、三好郡池田大西
町に辿り着き、御免許所、郡奉行、中村若狭守様に
御取り立てられる。
「元和年間初期と推定す。「一六一六〜一六二〇
年」頃当分の間の飯糧、普請木、御給地等、相当の
お手当てを賜り、御仁心を頂くとあり、当分の間町
人扱い、氏姓を改め真鍋屋とし、名を又左衛門と名
乗り、真鍋屋又左衛門と改名したと描かれている。
系図書焼き失うと云う出来ごとで、三好郡誌には、
寛政十一年、池田大西鍛治屋町より出火、五十七棟
焼失、医家神社も類焼により焼失、東町一帯が焼失
した事を伝えている。「又左衛門から五代目、次左
衛門」のときと成り、権次郎「多重郎」五十才の時
の出来事である。
死去した時からの逆算である。この描き遺した古
文書は、文化六年であり、系図焼失してから十年後
の多重郎六十才の書物を子孫に残した遺書でもあ
る。多重郎の人物の才能は、寛政十二年十二月十二
日郡代様より召し出され、一代の負役御免、年寄役、
帯刀許されると云う、褒美を受けている。又「天保
十二年三月一日には一子分太郎と共に徳島城に召
し出され、城主様より小太刀と小金を賜わると云う、
恩賞にも預かっていることを源古臣誌にも記され
ている。」権次郎は信仰心が厚く、医家神社の再建
にも相当な御差上金を献上した事が認められ、又、
次左衛門家の再建にも尽くした事からも、多重郎
「権次郎」の遺した古文書は信用度の高い書物であ
ると確信している。
上記のこと等研究してみて、尾張の国から来た間
鍋姓の祖は、塩川姓から離れた弥九郎「間鍋詮光」が
始祖と考察することが解ける。
あとがき
吾等二一世紀の初期を生きることに、国家の恩恵
を受けて生活している。この国に誇り得る歓びに感
謝の念多く世間に生きる。そもそも我等は先祖の願
望、平和の礎の賜物を背負って、生かされている。
だからこそ個人は先祖に想いをいたし崇敬する心
を明快に開いて、宗祖先を調べることに意義あると、
考えを新にして、乏しき資料、乏しき学力と不足す
るもの多かりしが、独断の推理の助けを借りて不詳、
不明の部分を埋め、漸くにて、尾張から来たと云う、
間鍋又四郎の始祖、間鍋刑部詮光の生を受けた時ま
で遡上り得たり。今後補正すべき部分斟酌からずと
は想えども、略々大筋は掴み得たり。
願以此光明功徳心經皆共成道 合掌