真鍋近江守孝綱の出自

 徳島市の全国まなべ会顧問真鍋武氏は、「私の歴史メモ帳より」(平成10年8月6日付)に次のように記しています。


 孝綱の出自は和泉国(現大阪府)の水軍真鍋氏の分流であると断定しております。
 その理由は永正5年(1508)7月和泉上半国の守護細川播磨守元常は、第10代将軍の座に返り咲いた足利義稙の管領職に就任した細川武蔵野守高国によって、応永15年(1408)より8代継承されてきた守護職を罷免されたのである。
 それは阿波守護細川兵部少輔義春鋸澄元と、高国とが管領職争奪戦をしていた時、元常は姻戚の理由があって澄元側に味方し、出陣して高国側と戦った。その怨恨のようである。
 元常には先祖より阿波国に「河輪田荘」(麻植郡川田村)を領有していたが、家臣を保有していくには財政困難は必至であり、他に所領を求めなければ破滅することになるのである。
 阿波の細川義春の尽力によって伊予国新居郡中村・萩生村二村の穀倉地帯を確保することができて、此の荘園の地頭に和泉真鍋氏の一族であって、元常の重臣であった真鍋孝綱が就任したものである。
 阿波の細川氏の重臣三好氏の権力は強大であって、守護をも凌ぐ勢いであり、孝綱は三好筑前守之長の娘を娶ったのである。(阿波国徴古雑抄)
 天文五年(1536)3月阿波の細川澄元の子晴元は、天王寺合戦で高国軍を敗り、同年5月管領に就任して、直ちに元常を和泉上半国の守護に再任させたのである。元常の守護罷免は実に29年の長きに亘ったのであった。(日本史大辞典)

 天王寺合戦には和泉真鍋氏6代孫、鶴若丸は家臣五拾余名を率いて出陣し、一番槍の高名を立て、元常より「内蔵助」の名が贈られて”真鍋内蔵助貞詮”と称して、元常より大きな信頼を受けたようである。
(八代孫貞成自叙伝紀)
 真鍋孝綱の出自を、和泉国の真鍋氏の分流とする私の説の理論は
 (イ)=元常が守護罷免という大事件のこと。
 (ロ)=和泉真鍋氏が隆盛なる家系であったこと。
 (ハ)=元常の年齢より孝綱の年齢が五歳位下であったこと。

 これらを熟慮して、孝綱の伊予入国の理由は、”(イ)項”を措いて外には見当たらないことから、私は強く確信をするものである。
 孝綱の出自については、私の著書「まなべ氏のルーツ」(第五集)の100ページ〜148ページに詳細に述べてありますので、今回は省略した。
(註=孝綱の出自について「まなべ氏のルーツ(第五集)に、藤原朝臣姓と記し大織冠鎌足公を始祖とする和泉真鍋氏の分流と系図を添えて詳細に述べられている。)
 追文=天保13年(1842)3月完成の「西条誌」作成の時、「真鍋近江守孝綱は旧近江国より出づ」と、儒者日野暖太郎和照に子孫が申告したことで、出自近江説と思われるが、私が7年間に亘り古代・中世・近世に於いて、近江国に存在するあらゆる書籍を調査したが真鍋姓を発見することはなかったのである。従って近江説には根拠はなかったと言えるのである。

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