讃岐におけるまなべ氏の起こり


  全国まなべ会 第18回総会(先祖祭) 讃岐全国大会の記念誌に、次のように記されています。


伝承

 讃岐におけるまなべの起こりは非常に遠く神宮皇后朝鮮出兵の時代にはじまり、皇后瀬戸内巡幸のおり讃岐直島に立ち寄り、この地に於いてやまと姫をお産みになり、その子孫が真奈辺一族となったという説もあり、その伝説は各地に残されております。又崇徳天皇讃岐に流されたとき、付き人の一人藤原の友長が天皇なきあと讃岐にとどまり、まなべ姓を名乗り庄内半島に住みついたという伝承が残っているのである。


讃岐の古代豪族

 律令国家は大化以前から国造人(くにつくりのみやっこ)などの有力豪族を郡司に任じて、讃岐の国造系を作っていた。
郡司は桜井田部連(さくらいたなべのむらじ)氏、秦公(はたのきみ)氏、因支首(いなぎのおびと)氏、丸部臣(わにべのおみ,又まるべのおみ)氏、刈田首(かったのおびと)氏、韓鉄師(からのかぬち)氏、大伴首(おおとものおびと)氏、伴良田連(とものよしたむらじ)氏などの豪族たちによって支配されていた。

 東讃岐の代表的な国造りでは凡直(のべのあたい)氏が寒川郡山田郡三木郡を管轄し、後に敏達天皇より紗抜大押直(さぬきおおしのあたい)の姓を賜り讃岐公となったのである。讃岐公の遠祖は景行天皇の第十王子神櫛王とされ、後の国造橘の公成、公業らは平安末期讃岐東部を支配していたようであり、大川郡長尾町内のまなべ一族が今も神櫛王の墓のお祭りをしていることも、まなべ一族と橘一族のつながりがあった事がうかがわれる。

 丸部臣、刈田首の両氏は三野郡、豊田郡の大領をつとめ、刈田首は紀井朝臣を賜り土佐の国造ともなった家系であり、丸部臣は橘氏の子孫であるといわれ、後にまなべ姓を名乗り西讃岐地方で活躍していると考えられる。

 讃岐に於けるまなべ氏族は西讃、東讃地方に於いては古代からの伝承によれば、橘、藤原の流れをくむものが主流であり、源氏、平氏系統は讃岐に於いては存在が薄いようである。

源平合戦と讃岐

 寿永二年七月源氏の軍勢の迫る中、平氏は幼い安徳帝を奉じて西国へ下った。平氏の都落ちである。福岡太宰府に於いて再起を図ったが、九州の武士たちに追われ瀬戸内海を東上し、十月下旬讃岐屋島に本拠を於いて備讃瀬戸を制圧し、瀬戸内海の海上交通を支配することがあったと見てよいのである。

 のち平氏は源頼朝と義仲との対立に乗じて元暦元年都を福原(神戸市内)に置いたが、翌年一ノ谷の戦いに敗れ、再び屋島へ戻った。同時に一門の知盛が別動隊を率いて関門海峡を扼する門司関を固め、長門国彦島に」本陣を置いて瀬戸内海西部を掌握した。

 平氏が本拠を福原に移した頃、讃岐の武士たちの多くが平氏を見限り源氏についた。

 その中に橘公業(たちばなきみなり)が居た。又中讃地方のまなべの遠縁新居藤太夫資光、橘太夫盛資、仲藤太夫貞房、三野九郎有忠、三野太郎、大麻藤太家人 等がいる。橘太夫盛資の子孫の多くはまなべ姓を名乗るものも多く、その中には建武中興の忠臣、楠正成が居たとも考えられる。

 一ノ谷の合戦では真鍋五郎の名は有名で後に平家物語の歌に”源氏に那須与一ありとはいえども、平家に真鍋五郎あり”と歌われたほどである。

 寿永二年三月一ノ谷の合戦において、真鍋五郎祐光は備中の国の住人にして武勇に優れ、平家方の尾守を受けたおり、生田の森の陣営を守っており、源氏方の一歩も進入を許さず国守していた。東軍(源氏方)の師不利と見ていたとき、河原高直およびその弟盛直の両者は豪気であり非常に勝ち気であり、矢来(やらい)をくぐり挺身跳び入りて来た。五郎祐光これを見て矢を放ち高直の胸を貫き、二の矢にて盛直も打ち取った。嗣ぎに三の矢で藤田三郎、四の矢で江戸四郎を続けざまに四人をたおしたのである。源氏方の大將梶原源太が大いに感心して、世に言う二度懸の功名と称えたのである。

 後に讃岐多和村に住みついた。当時この地方の豪族橘一族の支配で公業が治めていた。五郎祐光は難を逃れるため真鍋五郎橘祐光と名乗って、公業死後橘一族の頭となってこの地方に住みついた。

 生田の森で兄四郎祐久は戦死し、今も残る真鍋島にまるどうさんを建立し四郎祐久の菩提を弔ったのであろう。
この戦いの主役河原兄弟は三宮神社の片隅に河原神社として祀られており、大戦中に時の総理東条英機が参拝しており東条英機の先祖は河原兄弟だと言われている。
 大川郡長尾村多和には五郎祐光の墓があり橘神社として祀られている。又この部落を助光と言われているのも何かの因縁ではなかろうか。この地方には真鍋,真部姓を名乗る家が多数あり、東讃地方のまなべ一族のもとと言っても過言ではなかろうか。

 西讃地方におけるまなべの発祥は東讃のまなべ氏族の発祥より更に数百年古く古代よりこの地方の豪族として居たようである。

 その遺構が母神山古墳群につながって居るとも考えられる。丸部一族の存在、藤太夫一族の存在等も何かの関連に於いてまなべ氏とつながっていることは見逃すわけにはゆかないのである。その起源と言える母神山古墳群は県内に多く存在している古墳の中でも、ときにまなべ一族に深いつながりがあると思われる。真鍋塚古墳は所有者が真鍋氏であるからと、一概に片づけるわけにはゆかない。この地方(三豊郡内)および東讃には数多くの真鍋姓を名乗る人々が住んでおり、この人々の心の古里でもあると思われる。

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