大分まなべ会


 本資料は,平成12年2月6日(日)大分市のコンパホールにて開催されました 大分まなべ会新設総会における記念講演資料,講師は真鍋松子全国理事です。




大分にもあつたまなべの地名

 全国で「まなべ」の地名が下記のように4ヶ所あります。

まなべ真鍋常陸藤沢土浦市茨城140°12@
まなべ真辺宇佐宇佐市大分131°17A
まなべいっちょうめ真鍋一丁目常陸藤沢土浦市茨城140°12 
まなべかいさく真鍋開作台道防府市山口131°29B
まなべしま真鍋島白石島笠岡市岡山133°34C
まなべにちょうめ真鍋二丁目常陸藤沢土浦市茨城140°11 
まなべよんちょうめ真鍋四丁目常陸藤沢土浦市茨城140°12 
まなべろくちょうめ真鍋六丁目常陸藤沢土浦市茨城140°12 

新日本地名索引より


 大分のまなべさん、ともにルーツを探求して見ませんか。ここでは宇佐市に ある真辺をご案内致しましょう。

 宇佐市赤尾村真辺は四日市から大根川に向かつて行く所にあります。閑静な 田園地帯で、のどかな村の風景が広がります。前方に光岡城址跡の山が勇々し く鎮座しています。当時の城は居住するのではなく、砦とする山城でありまし た。その昔戦国の世、山口の武将大内氏が豊前を支配していた頃、大友氏に従 軍し戦場の舞台となった場所です。
 時は弘治三年(1557)下毛郡山田安藝守の城を攻め抜き、永禄九年(1566) 3月中島伊豫守成恒と麻生近政を打つて滅ぼしました。この時の武将 が赤尾左衛門太夫賢種で、その軍勢で活躍したのが眞邊新五左衛円成秀であり ました。
 その後赤尾氏は中津藩主より大庄屋を任ぜられ、その一部を眞邊氏へ庄屋と して分け与えたと云うことです。この事からしても赤尾氏と眞邊氏は姻戚関係 にあつたと思われます。中津藩大庄屋赤尾三左衛門は伊藤田から丹次を養子に 迎え入れました。その丹治は養父にも劣らぬ人物であつたと云います。赤尾丹 治の百姓一揆の哀話はあまりにも有名なお話です。伊藤田は中津市にありここ にも眞邊姓が多い所です。(大字佐郡史論)
 更に中津藩忠昌公時代に藩臣真鍋市郎兵衛の名が記載されていますが、眞邊 新五左衛門成秀との関わりがあるのかは定かではありません。大分県北を中心 にまなぺの歴史は思わぬ展開と新しい歴史の発見となることが期待出来ます。

 眞邊新五左衛円成秀の末孫は代々庄屋を経て赤尾村の村長へと引き継がれて 行きました。近代に於いて最も有名な俳人眞邊孫市がいます。
 眞邊孫市は文人的性格の持ち主であり、率直で温雅で真に文人タイプの教育 家でありました。後に村長となり自治にも可なりの功績を挙げていると云われ ておりますが、実は八面玲瓏な多角型の人ではなかったようで頗る誠意のある 人柄が至るところで業績の見るべきものとなったようです。(大宇佐郡史論)
 氏の孫に当たる眞邊龍臣氏の令室綾子夫人はご健在で代々受け継がれた家を 守つておられ、大きな邸宅の屋敷内に孫市の碑が建立されております。また眞 邊綾子氏は大分まなぺ会の会員としてもお心厚いご協力を戴いております。

 大分のまなぺ氏の歴史はここ宇佐市から始まつているように思えるのです。 それは字図や土地登記簿名は眞邊ではなく真部となっていると眞邊綾子氏初め 地元の人達からも伺っております。これで大分に真部姓が断然多い理由がわか るような気がします。
 真部姓は源平合戦で平家に就いて活躍した真鍋五郎祐光の直系筋が香川県大 川郡長尾町で真部姓を継承しており、まなぺ姓も真部・真鍋・間部・眞邊・間 鍋と云うように子々孫々と脈系され、すべて一族同根とされています

 大分のまなべ氏の歴史は宇佐を足がかりとして研究を進め、改めて日本の歴 史を皆さん方々と学び合いたいと思つております。また追々研究報告をしたい と思いますので、今後とも大分まなべ会一族の温かい触れ合いの場を盛り立て 発展へのご協力を宜しく御願い申しあげます。

全国まなべ会調査研究部
真鍋 松子