兵庫まなべ会設立総会(平成12年4月9日)
記念講演より




瀬戸内海真鍋島を繞ぐる人々

講師 全国まなべ会事務局長 真鍋禮三


 分類にはいろいろな仕分け方があるが,人間をしいて分類すると,偉人,奇人,変人に……まだ 何かありますか,これは生活態度,行跡などからの分類だと思われる。

 瀬戸内海の一孤島である真鍋島にも色々な人たちが訪れています。しかし.兵庫県の家島諸島で 発見されたような後期旧石器時代の遺跡はない。本土より約20粁も離れた位置にある関係かも知 れない。四国地方からも約20粁であるので一名「五里五里島」と呼ばれていた時代もある。併し 「サヌカイト」(注1)が発見されているので約1万年昔,讃岐地方から海を渡って島へ来た人間 がいたことは確かなようである。これ等の人々を来島第1号とするが,人間の分類上,何れかの型 かは判らない,多分,変人に入るのではないかと思う。

 真鍋島で発見された土器は土師器(はじき)と須恵器である。明治34年石工忠吉氏(注2)が 発見者となぅている,場所は島の西北端の丘陵地帯である,すぐ隣接地に平山と言う場所があり, 中世の「平山船団」の比定地となっている。須恵器は6世紀後半に大陸より伝来した新方法の「登 り窯」で製作された土器である。応神陵,仁徳陵などのある大阪府南部で大規模に生産され始め, のち,岡山,島根,和歌山,愛知,福井地方へ波及し, 7〜8世紀後半には全国各地で生産される ようになった由。真鍋島で発見されたのは祭祀用土器で,当時,島で祭祀を施行できる程の財力, 権力をもった一族がいたことになる,多分漁業作業にたずさわっていた人達と思われる。

 魚の古語を「まな」と言うが真鍋はあて字,真那,真名,真奈なども全てあて字で,魚のよくと れる辺鄙な島,と言う意味がまなべ島であろうと推察される。 奈良・平安時代(710〜1190)は 真那辺,真名辺,真奈辺と三文字ですが,享徳2年(1453)に記述の文献以降は真鍋と二文字表示に 変わっている。

 降って1163年,西行法師(1118〜1190)が来島し,山家集で「真那辺より塩飽へかようあき人は つべをかいにて渡るなりける」と言う和歌一首を残しているが, 「つべ」とは「つみ」とも言い, 「積み荷」とも言われ,商売を意味する「罪悪」とも解される。又,貝類とも言われ女性を意味し て「女郎買い」をしながらとも解され,又,ニツ以上にかけて詠んだという説もある。何れにして も,悪いことをしながら塩飽の島へ渡ると解され彼一流の宗教的色彩の強い和歌である。
 こんな和歌を詠んだ西行法師は何れの分類に入るのであろうか。 「願わくば花の下にて春死なむ その如月望日の頃」(注3)と詠んで,正確に2月15日に物故しているから,偉人に入るとも思 えるが,当時,権勢,並ぶもののない北面の武士であり,特に,崇徳上皇に重んじられた立場にあ りながら世捨人となった点からは変人とも考えられる。

 中世,真鍋水軍の魁将・真鍋右衛門大夫貞友公が享徳2年(1453)に記述されている真鍋家々系図 (拙宅にて保管)の冒頭「藤大納言信成と言う一行……」とある。公卿補任(注4)中には信成が 7名記述されているが,大納言は一人もいなく,参議中将信成が最高位の人である。信成の一子, 不節中太夫(注5)が真鍋島に配流され,そのお墓も貞友公のものと並んで真鍋島に現存している ことが,京都大学金石学研究教室(注6)中西享教授の実地検分により明白である。
「讃岐まなべ会」は祖先の墓参行事として毎年お盆の頃に来島されています。信成公は1226年頃, 佐渡で没しているが,不節中太夫も大凡その前後の頃の人であると推察される。この人たちは当然 貴人に分類される。

 嘉元3年(1305)の九條家旧藏にかかる「摂録渡荘目録」によると,備中の「真鍋荘」と記述され 中御門家の知行所,即ち,荘園であったことが判明している。又,先述の西行法師も「京よりあき ない人あまた来たリ…」と,詞書(注7)をのこしている。真鍋島方言に「京ことば」が残ってい るのもうべなるかなと思われる。 「湯もじ」, 「行かっしゃれい」などである。

 先述の真鍋水軍の魁将貞友公は笠岡諸島を領有し,中を瀬戸内海の興亡常ならざる時代を生き抜 いている。貞友公の娘は村上八郎左衛門景廣の後室となっている,景廣は18歳の初陣,大阪は木 津川の戦いで織田信長軍を敗退せしめた勇将であり,のち,笠岡城主となっている。貞友公も「寄 らば大樹の蔭」を地で行った人である。

 貞友公時代から真鍋一族は島から消える,未調査である。

 愛媛県新居浜の故越智榮治郎先生の「予州真鍋一族Jによると,予州真鍋一族の始祖は1450年頃 の真鍋孝綱公となっている,孝綱は「近江の真鍋島から渡来した……」とあり,近江に真鍋島はな いから「おおみ」は「大海」を意味し,その頃の瀬戸内海を「おおうみ」と呼んだのではないかと 推察されます。真鍋一族が真鍋島から不明となった同時代,予州に真鍋姓の人物があらわれている こと, これは何か因縁めいた歴史的事実とも言える。

 その後,1600年頃,即ち,慶長5年の関が原の合戦時代に,突如として式部の一子たる善兵衛な るものが真鍋島の庄屋を命ぜられている。式部,善兵衛ともども経歴は不明である。

 ついで元和時代(1620年頃),福山城主水野勝成公の領地となっているが,その輩下,東清兵衛 氏が来島して福山藩への仕官を要望しているが, 「戦ボケで, ものの役にはたちもうさず」として 辞退している。多分,関が原の合戦に毛利の輩下として西軍に参戦してボケたものと思われる。善 兵衛から姓が「三宅」に変わっており,墓石名も天保年間(1840年頃)までのものは,全部「三宅」 となっている。水野勝成公は広島へ鹿狩りの帰途,真鍋島の鯛網を見学しておられ,公の行跡を読 むと一種の奇人とも言える。

 小堀遠州と言えば茶人で,又,造園家として,京都「桂の離宮」の設計家としても有名である。
 永和年央(1375年頃)備中国奉行として父作助についで高梁に赴任している,その時代,真鍋島 へ来島して総本家,真鍋増太郎(現在)邸の奥座敷の中庭の造園を手がけておられる。

 降って地理学の大家,測量士の伊能忠敬氏も寛政年間(1795年頃)来島して拙宅に投宿しておら れることが,同時代の御廻状品帳に記述されている, これは,ここ2年前から神奈川大学院の地歴 研究班が来島,拙宅に残る古文書を逐次撮影保存する作業に従事していて発見したものである。

 京都大徳寺418世營長宙宝老師は天保年間(1830〜1843)来島,拙宅に投宿しておられる。拙 宅中庭の「ホルトの樹〈昭和26年岡山県天然記念物指定)」を槐(えんじゅ)の樹と見誤って緑蔭 したたる風情を賞でて拙宅の庭を「槐園」(えんじゅえん)と銘うって,木彫り額の贈呈を受け, 現在も大事に保管している。 「槐園」は一名「延寿の園」とも解されるから,今更ながら名僧にた いし感謝の念を禁じ得ないものがあります。宙宝老師は明智光秀の菩提寺,天光院の院主でもあら れる名僧であり傑人である。

 戦後,昭和23年真鍋中学校の初代校長として赴任した大陸生まれの傑物,江原一次氏は視察に 来島した米軍民生局次長アンダーソン女史(ヒップ98cm)が職員室不要論を述べたのに対し, 日本 の教育史をとうとうと論じて,職員室が日本の教育の現場で必要不可欠なものであることをまくし たてた,校長はのちに民生局の顧問に要請された。

 私は昭和25年から30年までを, この校長の下で奉職しておりました。中学生に体操を教える よう命じられたとき,旧日本軍の歩兵訓練を教えても良いかを伺うと,大いにやりたまえと言われ 「右へならへ」 「但々右へ進め」などを発声すると,はじめ,当時の中学生はポカンとしていた。
 併し,その訓練のおかげで,運動会の集合,集団行動が誠にスムーズに実施され,校長より大変 に褒められた思い出があります。戦後,民主教育の中で,旧日本軍の軍事訓練が役立ったこと,何 とも奇妙な思い出であります。

 以上真鍋島にまつわる各種の人物を紹介致しましたが,これ等,歴史上の人物に勝るとも劣らな い傑人は兵庫の生んだ,真鋼又治郎翁だと明言申し上げたい気持からに外なりません,誠に,純粋 な考えの方をもった人であったと存じます。
 昭和56年8月30日,第1回全国まなべ会発起人会の席上,まなべ会の名称,表記についての 論議中「まなべ会」とひらがな表記を主張していた故真鍋弘2代日会長にたいして,真鍋又治郎翁 は「全国真鍋会」と漢字表記をつよく主張し,一歩も譲らなかった。まなべ会はあくまでも純粋の 「真鍋一族」であるべきと主張されたのです。結局,名称,表記問題は継続検討となり,全国総会 で審議・決定することになりました。誠に,純粋な粋人であると言う印象をいまだにもって翁のな つかしい思い出と致したいと存じます。

 ご静聴ありがとうございます。            以 上



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