【第三部】 観 光
〔世界文化遺産・国宝姫路城〕
平成5年4月,姫路城は奈良の法隆寺とともに,我が国としてはじめて「人類の宝」でありますユネ
スコの世界文化遺産に登録されました。
姫路城は城郭建築技術が最高潮に達した時期の最も完成した時代に建てられた城で,外観は桃山建築
の粋を集め,連立式の天守は豪華をきわめており,本丸には高さ45mの天守閣や,東・乾(いぬい)・西
の小天守が小山のようにそびえ,その周りが備前丸・西の丸・二の丸・三の丸などにわかれ,石塁を築
いて塀・門・櫓を配置しています。建築はすべて白漆喰総塗籠(しろしっくいそうぬりごめ)でその白い建築群が緑の
小山から天空に映えています。その姿が白鷺に似ているところから別名白鷺城とも呼ばれております。
姫路城ができましたのは貞和2(1346)年で,赤松則村の子貞範が姫山を中心として城を築いたのには
じまりますが,現在の規模は天正8(1580)年秀吉が中国平定の根拠として3層の城を築き,あとを受け
て入城した池田輝政が,慶長6(1601)年5層の天守閣を築いて3重の堀りをめぐらしました。その後,
本多・松平・榊原各氏が三の丸・西の丸等を増修築して現在の形態を整えています。
西の丸には300mにおよぶ長局(ながつぼね)があって,化粧櫓がついており,徳川家康の孫千姫が本多美濃
守忠政の子忠刻(ただとき)と再婚したときに,その居所として建てられたもので当時は異彩をはなっていま
した。城内には姥ガ石・腹切丸・お菊井戸など,それぞれ哀話を秘めた遺跡が残っております。
400年間で,姫路城には3度の大きな危機がありました。第1回目は慶応4(1868)年鳥羽伏見の争い
の後,幕府側の姫路藩は朝廷側の攻撃にあい,城を明け渡すことで幸い傷を受けずにすみました。2回
目は明治6(1873)年の廃城令で,多くの城が壊されるなかで,姫路城も明治8(1875)年払い下げられ,
23円50銭で落札されましたが,解体に莫大な費用を要することから取り止めになりました。3回目は第
2次世界大戦の空襲です。姫路市は2度空襲を受け街は焦土と化しましたが,城は奇跡的に残りました。
現存する完全な城郭としては日本唯―のものといえる貴重な遺構です。姫路城は昭和3(1928)年史跡に
指定され,昭和6(1931)年1月19日天守などが国宝に指定され,丁度,今年が70周年になります。
〔明石海峡大橋〕
全長3,911m。主塔間距離1,991m,主塔の高さが297m等はいずれも世界―です。昭和
61年4月に起工, 13年後の平成10年4月完成。翌11年完成した広島県と愛媛県を結ぶ『しまな
み海道』,すでに開通していた瀬戸大橋と合わせて3橋時代の本州と四国を結ぶ一つのルートです。
〔須磨寺一福祥寺〕
天長年間(824〜834)に漁夫が兵庫和田岬の海底から檀木の聖観音像を得,これを会下山(現神戸市)
に祭ったが,霊験のあらたかなことから,光孝天皇がこの寺を建てて安置されたと言われています。
かっては7堂・12坊をもっていた,明治維新以降,一時はなはだしく荒廃していました。
寺宝には平敦盛の青葉の笛・弁慶の鐘・弁慶若木桜制札・法然筆平家赤旗名号・平敦盛画像・真鍋豊
平遺品の一絃琴などが宝物殿(無料)に納められており,境内には義経腰掛け松・首洗い池・釣竿竹・
敦盛首塚・若木の桜・真鍋豊平の歌碑などがあり,山を負って景色がよく,広い境内は市民のいこいの
場所でもあります。
真鍋豊平さんにつきましては次ページの光徳近江副会長様のご寄稿をご参照ください。
〔湊川神社―祭神は楠木正成〕
JR神戸駅のすぐ北側にあり,市民からは楠公さんと呼ばれ親しまれています。
神社の表門を入り,すぐ右に折れたところに,徳川光圀公が元禄5(1692)年に建てた有名な『鳴呼忠
臣楠子之墓J(ああちゅうしんなんしのはか−宝物)の墓碑があり,その裏には朱舜水(しゅしゅんすい−光圀公の師で明か
ら帰化した儒学者)の賛辞が刻んであります。本殿左奥の森は延元元(1336)年5月,正成一族が自刃し
たとつたえられる所です。
全国まなべ会のホームページ(http://www.interq.or.jp/power/manabe/)の『東讃真部(鍋)一族の
伝承』(出典は讃岐会報第4号とあり)によりますと『…摂津河内守楠木正成,その子帯刀左衛門正行
が一門も末葉同族なり』とあり,これは三豊郡大野原町に伝わる楠木正成大野原出生説とも符合するよ
うですし,また,国宝に指定されている高松藩松平家に伝わる後花園天皇のご親書のなかに『楠木の庄
讃岐……Jともあります。讃岐と楠木正成の関係,今後の調査・研究がまたれるところです。
〔三宮神社〕
昔の生田川は埋め立てられ現在の滝道筋に変わっていますが,平家物語第9巻・二度懸によりますと
平家方は,ここに逆茂木をつくり防禦を固めていました。そこへ東国の武者河原太郎高直・次郎盛直兄
弟はこの逆茂木をこえようとして真鍋(部)五郎助光の放った矢に射たれて相次いで倒れました。その
祠が区画整理により,神戸大丸の北側から三宮神社境内に移されて再建されています。解説の看板には
真鍋(部)五郎助光の名前がみえませんが,平家物語そのものが源氏方からみた一方的な記述が中心の
物語であることとあわせて考えれば,やむを得ないのではと思われます。