まなべ氏の由来


  大分市にお住まいの真鍋松子さんは、平成10年3月25日付けで長年の調査研究による集大成として「我家系の肖像」と題する本を出版された。その中に「まなべ氏の由来」ともいうべき文献・資料が出てきた。・・・と述べられ、次のようにその内容を記されています。      

               (原文のまま転載します。)



  それは今年平成9年9月大阪で開催された「全国まなべ会」でお知り合いになった静岡まなべ会会長真鍋梅美女史より「香川県三豊郡旧紀伊村大野原町大字青岡真鍋家系図」を戴いたのである。それには真鍋氏の発祥の地は三豊郡からとも読め、しかも真鍋島を「近江国真鍋島」と記しているのには頭を抱え込んでしまった。それで早速大分県立図書館へ新たな調査研究に入ったという訳である。

 それは三豊郡地方に母神山(はがみやま)古墳があり、中でも一番大きい古墳が真鍋塚古墳と云われ、4世紀から6世紀にかけて勢力を伸ばしていた真鍋一族の物だといわれている。その昔は「丸部」と書いて「まなべ」と読んでいたそうである。4世紀と云えば大和朝廷が国を統一した時代である。邪馬台国の卑弥呼が亡くなり、後継者の女性の壱与が立ったのであるが次第に衰退して行き、擦り変わるようにして大和朝廷が成立した訳である。

 つまり、邪馬台国は何者かの侵略により国を追われ、九州、四国、近畿方面へと移動し終焉の地、奈良で滅亡したのではとも云われており、それ故に九州説だの、いや畿内説だのと論争を呼び起こしているものと思われる。その何者かは紀元4世紀の前半、今の中国大陸の東北部の森林地帯で狩猟を営んでいた騎馬民族の一派が、朝鮮半島を南下し、その南端を足掛かりとして日本に攻め入ったのである。日向に上陸し、瀬戸内海を経て、5世紀の始め頃大和で強力な王権を持った大和朝廷が成立したという訳である。

 この大和朝廷とは崇神天皇のことであり、別名御間城天皇(みまきすめらのみこと)と云う。「みまの宮城に居住した天皇」を意味し、古くから天皇の呼び名は、その居住とされた地名によって表す習慣があったのである。「みま」とは任那(みまな)の転訛されたものであり、これは東洋史学者江上波夫氏の「騎馬民族王朝説」である。

 大和朝廷国家の創始、発展に天皇氏とともに関与した諸豪族に系統、出自、職掌、姓等によって、少なくとも6種類ぐらいに類別される「氏」があった。まず臣と連と云う姓を持った大和朝廷に於いて特別重要な役割を持った豪族があった。 

 

臣姓葛城・巨勢(こせ)・和珥(わに)・平群(へぐり)・蘇我・紀・吉備・出雲等の土地の豪族、地名を氏とした。
連姓大伴(おおとも)・物部(もののべ)・中臣(なかとみ)・掃守(かんもり)・土師(どし)・鏡作部・玉作部・山部・服部・鳥部・田部等の職業を氏とした。


 その臣姓の中に丸部(まなべ)の氏は確かにあった。当初丸部は「わにべ」と読まれていた。丸部臣(和珥部臣・わにべのおみ)氏は嘉祥元年(848)の頃、三豊郡の大領を勤めていたことが香川県史(続日本後紀)に載っている。その「わにべ」が「まなべ」と転訛され、今日の「真鍋」姓へと受け継がれたものと思われる。また三豊地方の勢力は吉備勢力を主力とする淀川ぐるーぷに属していた。
 
 大和朝廷が国を統一した4世紀から5世紀にかけ、三豊地方一帯の配下を賜った真鍋氏は瀬戸内海の島の一部も含めており、漁業捕獲の拠点とした島を「真鍋島」として大和朝廷に献納していたものと思われる。

 そして7世紀に入ると中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は中臣鎌足(なかとみのかまたり・後に藤原鎌足と改名する。)とともに飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)の宮中で蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺し、天皇家と並ぶ権勢を誇った豪族蘇我氏は一挙に衰退していく訳である。これを大化改新と云う。西暦645年であった。
 これによって皇太子として政治の実権を握った中大兄皇子は中央集権的な天皇制国家へと急激な改革を進めると同時に、異母兄の古人大兄王子(ふるひとおおえのおうじ)を討ち、孝徳天皇の遺児有馬皇子(ありまのおうじ)を殺し、その地位を確固たるものにしていくのであった。そして667年、中大兄皇子は飛鳥から近江大津へ都を移したのであった。大和朝廷から近江朝廷へ強行され近江大津京は新しい日本の中心として前進をはじめ、天智7年(668)中大兄皇子は天智天皇となったのである。いわゆる天皇家を藤原氏の権力によって国家統一していく中臣鎌足の目的が果たされたのであった。
 
 当時近江朝廷においても和珥部は活躍しており、朝廷より三豊郡一帯を配下として賜った時期にズレがあるかも知れないが三豊郡の真鍋家系図に載っている「近江国真鍋」の意図は近江国から来た真鍋の島という意味から来ているものと思われる。このように「真鍋」の由来は卑弥呼の時代にまで遡り、騎馬民族王朝説が飛び出す中に秘められた三豊郡の中にあったのである。
 

 そして大和朝廷から始まる歴代天皇の中で、敏達天皇を始祖とする井出左大臣橘諸兄(いでさだいじんたちばなもろえ)の次男諸方(もろかた)系統の橘遠保(たちばなとうやす)の子孫は保元年間に故あって真鍋島へ配流されており、名も橘姓から真鍋と改め、「真鍋」の歴史はここ真鍋島から始まるのである。


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