平成8年9月16〜17日、全国まなべ会 第16回総会(北海道全国大会)が定山渓で開催されました。 その時 第3代目会長 真鍋重治氏が 「まなべ氏の足跡あれこれ」 と題して、次の内容の講演をされました。
推論を混えての内容であり、まなべ氏のルーツを探る視点とロマンを語っています。
真鍋島の伝承によれば、我が真鍋氏の遠祖は、神武東征軍に加わり、高島宮より船出のみぎり、急疾のため残留。
神宮皇后の三韓征伐の船出にあたり、飛簾は大風を巻き起こし、波の神は大波をたて、海中の大魚は悉く浮かび上がり、船をかつぎ「漕ぎ手」は船を漕ぐこともなくアット言う間に新羅に到着。
新羅王は怖れて忽ち降伏したとある。 (古事記、日本書紀ー神宮皇后の三韓征伐の項)
また、皇后凱旋の途次備中双子山にて双子を出産し、その次子を残して真鍋氏を襲しめたとある。
(思うに、この水中の大魚こそは水師として参戦した真魚部水軍であり、その功により次子を賜ったもの?)
景行天皇の御代に、日本武尊、九州の熊襲を征し。続いて東国の蝦夷を討ったが、これらの征伐にも真鍋水軍が活躍し、その痕跡今に残る足跡こそ土浦市真鍋町の地名ではあるまいか?
源平戦では、瀬戸内水軍を味方として海上では平家方が優勢であったが、一の谷の敗戦により河野水軍等が源氏方に寝返り、形勢は逆転した。その上、屋島の背後からの義経の奇襲にあい、混乱しながら赤間ケ関へと落ちのびたが、壇ノ浦の戦いにも敗れて安徳天皇等は入水し、平家は滅亡した。
しかしながら、天皇の身代わりとして入水したのは従弟で同年の宇佐公仲であって、安徳天皇は真鍋の五郎祐光等に護られ遥か南方の海へ逃れ、最後は南洋群島のポナペ島に落ち着き再起を図った?
(このポナペ島はマナベ島が訛ったものと思われる。)
金沢文庫所蔵本のなかに小田原藩(藩主 稲葉氏)の家臣に真鍋氏が四家あり、筆頭は江戸家老で真鍋伊兵エ尉景命 禄高千石とある。稲葉氏を調べると、その家紋(折敷に縮み横三)から本姓は河野氏と判明。
西美濃三人衆(林佐渡守通勝、稲葉一轍貞通、一柳監物)も、これ皆本姓は河野氏であり、南朝方として湊川に出陣する。 新田義貞に従い京都比叡山を経て北国に落去するに当たり、木の目峠は時ならぬ大雪となり 山越え殊のほか難渋のうえ、後方よりは足利尊氏軍が迫り、しんがり軍の土居通増等は山越えをあきらめ 琵琶湖北岸を廻り、伊吹山を越えて美濃の国に落去して土着した。
(この軍中に伊予真鍋氏あり行を共にす)
林佐渡守は織田信長の家老であったが、信長に睨まれて没落。一柳氏は川之江に移り 後播磨へ。稲葉氏は春日局の引きもあって小田原城主に、後高田、眞岡、佐倉、淀と転封となる。
楠氏は南北朝100年戦争の末、真鍋水軍の助力を得て対馬に渡り朝鮮王の援兵を請うも叶わず。・・・・ (南北朝より戦国時代にかけての混乱は、欠史時代といわれ各地真鍋氏の足跡も分明ならず。)
長曽我部氏の四国統一、続いて豊臣秀吉の四国征伐と往復ローラーをかけられて四国各地の真鍋氏
は逼塞した。
関ケ原の戦いに敗れた西軍でも毛利氏の西帰により、笠岡城主の村上八郎左エ門景宏も浪人となる。しかし小倉の細川氏より家老として招かれ、名も「長岡河内」と改め赴任した。真鍋島宗家の藤兵エも妹婿の長岡河内を頼って真鍋島を離れ、小倉に移ったが、細川氏の熊本転封に従い熊本へ。
しかしながら、戦国武将の村上景宏は太平の世には無用の長物と禄を返上して故地へ帰ったが、藤兵エやその後裔はそのまま熊本に留まったものか?
掛川5万石の山内一豊も土佐へ栄転し一戦覚悟で家臣も4〜5倍に充足して土佐へ乗り込んだが、この中に新規召し抱えの美濃真鍋氏が居たものと思われる。
賎ケ嶽七本槍の一人加藤嘉明は、伊予松山より会津若松へ転封となり、家臣も数倍に増やして就封した。 (この中にも新規召し抱えの真鍋氏が居たものと思われる。)
嘉明が没し、子の明成に代わるや、幕府は非情にも「近江水口」一万石に左遷し、その家臣団の殆どは浪人となった。 (これが会津真鍋氏の祖であろう
?)
明治新政府の奨励もあって全国各地より渡道した真鍋氏は1000戸にも達したであろうか。20年位以前に600戸余りの北海道真鍋氏に照会状を発送し、出身地、系譜等についてお伺いすると共に、新居浜出身で石狩国三島子爵の農園管理人である真鍋氏の消息に就いても照会したが、なんの手掛かりも得られなかった。しかし この調査照会により阿波郡里村(美馬町)出身の同族5戸の判明やら、北海道まなべ会、近江まなべ会、土佐まなべ会の結成については些か貢献出来たものと自負いたしています。
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