
T.総論
(1)阿波入国の諸將達とその流譜
古来から、阿波には、支配者や、諸將が数多くいた。
古くは、阿波忌部氏から、9世紀平安時代の藤原氏、南北朝の細川和氏、鎌倉時代文治年間(1185)の佐々木経高、承久の変よりの小笠原長清、室町時代初代管領細川頼之、戦国時代室町幕府の実権を手中にした三好長慶など日本史でも知名度の高い人物が多くいた。それぞれ各地から任じられ入国した諸將が多く、諸々の足跡を残している。然し歴史上、昨今は、中世戦国期以降の、英雄・人物の研究に傾注する情勢が濃い。その様な傾向の理由は、栄枯盛衰があり、下剋上ありの乱世の人々の当時を探求しながら、当時の領国経営や、大衆庶民の生活に触れることが、現代人の温故知新なのかも知れない。 こうした中にあって、私達は否応なしに、戦国期前後の祖先の生き方の情報や、資料に対面し、避けられない様な環境におかれている。そのマスコミの風潮の中に、更に私達は、戦国時代末期のさまざまの諸將の生き方のクローズアップに曝される。 この事は、当時代の歴史にメスを入れる研究者の図書や資料に接する機会の多くなった私達には幸せであるとも考えられる。
戦国時代に阿波へ入国した武将達は、これ又数多く20名に近かろう、列挙を省略して、その中でも、栄枯盛衰の激しかった阿波三好一族の流譜に接してみると、流転、悲運の武将の数多いことを知った。又その中でも三好一族の類中に属する真鍋一族が更に身近い。そうして遠くひいては、伊予のまなべ諸將が、悲運にも戦から落ち流れて、阿波に入り、乱世の終末と共に、将兵としての夢も消え、又一方、求めて流転を続ける内父祖ゆかりの地に入国するも芽生えず果ては断絶する群像がある。
U.落人の譜
(1).始めに
”落人の譜”の資料としては、戦国史料から、元親記、南海通記、澄水記、三好記を参照した。
次に抜文を紹介するが、伊予関連の”澄水記”は、正・続群書類従を底本として、天和4年(1684)に天正の戦い高峠城落城100年忌に寺の住職によって記されたものである。本書は「豫陽金子軍物語」ともいわれるが各地に沢山の写本が残っている。またもう一つ「長元記」は土佐の古文書で万治2年(1659)成立したものである。
(2).澄水記より(合戦の部、後掲)
◎ 石川の子息虎之助と云を、石川伊予守と号し、新居宇摩二郡の旗頭となりて来り、高峠に新たに城を築き、地頭等そのまま旗下に附けたり・・・・・・・・・・当所兵乱静りける。
〔註.大永2年(1521)、応仁の乱より54年後将軍義晴の時代、入国の際]
◎ ここに金子備後守云いけるは、・・・・・・・・・・昨日は長宗我部に手を下し、今日は小早川に腰を折り、・・・・・・・・・・土佐の人質振捨で、・・・・・・・・・・討死して名を後の代に表すより外は有るべからず。
[註、天正13年(1585)秀吉四国攻め発向の折、東予の諸豪の軍評会議より]◎ 然而後、軍の評定有て勢揃あり。先づ金子備後守を始めとして、舎弟対馬守の一類に真鍋佐渡守・・・・・・・・・・高尾の城へ打立ける。
[註、天正13年7月 小早川、吉川軍、東予の新間、今治に進攻の際] 備後守=元宅のこと(兄)
対馬守=元春のこと(弟)
佐渡守=家綱のこと(叔父)
◎ 中にも真鍋孫太郎とて、二郡に隠れなき大兵の男あり五町・三町隔てても、かける鳥、下げ針杯射落とす名人なり。
・・・・・・・・・・戦闘の模様・・・・・・・・・・
[註.孫太郎=家綱の子、兼綱のこと、金子の従兄弟]
◎ ここに物の哀れをとどめしは、真鍋越後介という者の子に兄をば孫九郎(16才)、弟孫十郎とて13才に成りけるに、父の戦場に赴く時、不憫に思い堅く制して止めけり。・・・・・・・・・・然るに父の跡を追いて兄弟打つれ高尾へ登来る。・・・・
・・・・・・・・・・戦闘の模様・・・・・・・・・・・
〔註.天正13年7月15日前後、越後介=政綱のこと、金子の従兄弟〕
(3) 長元物語より
◎ 毛利殿三万にて豫州へ打渡らる。豫州金子の城は中国衆に切落され、金子討死す。
〔註.金子元宅のこと〕
◎ 前々元親公へ一味せし国侍を、太閤大追放しこれによりて、三ケ国の侍、ちりぢり牢人仕りし事。
(4) 伊予に真鍋孝綱興る
大永二年(1522) 三代真鍋孝綱、伊予国中村に入国 石川氏の与力として、中村及荻生村東部合せ一千貫を領有 中村の西部に真鍋城(土居構)を築き、真鍋近江守孝綱と号した。 〔西条誌 天保十三年〕
(5) 孝綱の年譜等対照表

−−−−−真鍋武氏による−−−−−
* 一説に”泉州にて三好氏への被官中、阿波を経て豫州、新居、宇摩二郡のお目付として、金子の家臣となる。”がある。
−−−−−真鍋重治氏による−−−−
(6).真鍋近江守孝綱の系図
天正十三年の陣、高尾、金子城落城の頃

−−−−−真鍋武氏による−−−−−
(7).高尾城の戦い
天正13年(1585)7月17日
愛媛県西条市氷見尾土居
金子元宅
天正十三年七月、秀吉は全国統一事業の一環として、四国征討のため阿波・讃岐・伊予方面に大軍を出兵させた。伊予の攻略には、中国勢の雄、毛利輝元が任じられた。輝元は、一族の小早川隆景・吉川元長を指揮官として、兵三万余を東予の新間(愛媛県新居浜市)・今治方面に進発させた。攻撃目標となった新居・宇摩地方では、金子・高尾両城に拠る金子元宅が中心となって土佐の長宗我部元親と同盟を結び、防備を固めていた。 上陸後、中国勢は周辺の御代島城(城主加藤民部正)・丸山城(城主黒川広隆)などを攻撃し、七月十四日には東予における長宗我部勢力の拠点の一つ、元宅の弟元春が守る金子城を力攻めし、壮絶な戦闘の末、城兵の大半を討ち果たし落去させている。金子落城後、小早川・吉川両軍を主軸とする中国勢は直ちに西進し、金子元宅の拠る高尾城に向かった。
高尾城は道前平野に接する標高二百三十メートルの山頂部に築かれた山城で、高峠城主石川通清の築城になるという。道前平野から燧一帯を一望におさめる要害の地であり、山麓部に里城・丸山の二支城をかかえていた。
中国勢の攻撃に備えて、城中には守將の金子元宅勢を中心に周辺の岡崎城主 藤田大隅守・麓城主松木三河守・畑野城主薦田四郎兵衛・入野城主横尾山城守・渋柿城主薦田市之允ら新居・宇摩両軍から参集した諸將がそれぞれ一族郎党を率いて籠城した。その兵力約二千(千八百ともいう)、山麓の里城には高橋美濃守が詰めた。ところで籠城を前に、諸將間にはさまざまな思惑が去来したようである。元宅の催促に応じなかった者もかなりの人数にのぼった。「豫州来由記」によれば、西条の武将近藤長門守が「今度ノ大事如何ガ面々思召サル、サレハ秀吉ノ鉾サキニハ沖モタマルヘキ通アラス、大敵ヲ見テ旗ヲ巻クモ武士ノ習ヒ、強テ恥トモ云ヘカラス」と降服を主張した。これに対して金子元宅は「小身ノ武士程浅間敷者ハナシ、昨日ハ長曽我部ニ手ヲサケ、今日ハ小早川ニ腰ヲ折ル、土佐ノ人質ヲ振リ捨テ、他人ニ後指ヲ指レンハ去沖ハ是非モナシ・・・・・討死シテ名ヲ世ニ現サンニシクハアラシ」とあくまでも徹底抗戦し義を重んずることを訴えて、ようやくにして諸將間の動揺をおさえることができたという。 決戦を前にして、高尾城では麓一帯に柵を打ち、付近の農家から挑発した戸板を張りめぐらせて防壁とし、夜はかがりをたいて中国勢の攻撃を待ち受けた。
7月15日、寄せ手の攻撃が開始された。山手伝いに吉川軍が、山麓からは小早川軍が一斉に鬨の声を上げ、高尾城に肉薄した。両陣の矢戦があったのち、寄手は備中の將、三村紀伊守を先陣として突進し、迎撃する城兵と各所で死闘を展開した。この戦闘で、城兵では宇高右馬之進・矢野九之丞・野田新九郎・今村八郎兵衛・大内平内など一騎当千の兵が乱戦の中に倒れている。
なかでも目覚ましい働きを見せたのは、金子元宅の従兄弟にあたる真鍋孫太郎父子であった。真鍋孫太郎は近隣に聞こえた弓矢の達人で、この時も強弓を引き絞っては寄手を射すくめ、たちまちのうちに12,3人の将兵を倒した。やがて矢種が尽きると、大太刀をふりかざし寄手の陣中に突入して相果てている。孫太郎の子で弱冠16才の孫九郎、13才の孫十郎兄弟も父を慕って敵中に斬り込み、壮絶な討死にを遂げたと伝えられる。こうして城兵の必死の防戦により、高尾城は容易に落城しなかった。
攻撃三日目の7月17日、新見・木梨・戸田ら備中の將は手兵三百を引き連れ、高尾城の背後五,六町にある急峻な山稜をよじ登り、眼下の城中へ一斉に鉄砲を撃ちかけた。これに呼応して、大手口からも精兵が無二無三に攻撃をしかけ、ここに敵味方入り乱れての最後の死闘が繰り広げられた。城兵は懸命に防ぎ、寄手の兵三百余を倒したが、続々と新手を投入する攻撃に次第に斬りつめられていった。守將元宅のもとには里城主高橋美濃守の戦死をはじめ、悲報が相次いだ。城兵の多くを失い、自身も矢疵を負った元宅は、今はこれまでと思い定め、城中に火を放って果てたという。
吉川元長が七月二十日、国許の周伯禅師に宛てた書状では、高尾城の落去について「十五日ヨリ仕寄・・・・諸軍手柄をふるい申付られ候間、十七日亥刻落去仕候、城勢金子備後守(元宅)を始として宗徒者六百余一時ニ打果し候」と述べているなお「赤木文書」によれば、小早川隆景の臣赤木忠房が金子元宅を討ち取ったとして、毛利輝元から感状にそえて「太刀一腰・馬一疋」を拝領している。
金子元宅の敗死と高尾城の陥落は、東予における長宗我部勢力の瓦解を意味した。それだけに戦況を注視していた長宗我部元親の衝撃は大きかった。元宅敗死の報に「アナ無斬ヤナ、廿日トモ堪ヘハ援兵ヲツカハシテ助ケンモノヲ、何レノ世ニカ金子カ志ヲ忘レント、頻リニ落涙ヲセラレケル」と悲嘆にくれたといわれる。そこには元宅を孤立無援のまま見殺しにしたことへの慚愧の想いが込められているが、この点と関連して「吉良物語」では、元親の用兵について「元親若シ一州ノ中ニテ防守ノ地ヲ撰ンテ、一二ケ所ニ城郭ヲカマエ、塁壁ヲ高ク築キ、日ヲ計テ兵糧ヲ入レ・・・・・・敵ノ虚ヲ打テ味方ノ機ヲ助ケハ、年ヲ重ネテ落去スマシキニ、足ラスシテ守ル其ノ士卒ヲ、津々浦々ヘ差ツカハシ、所々ノ小城ニ配分セシカワ・・・・・・見ル目ニアマル大勢ニ氣ヲ呑レ、肝ヲ潰シテ、一支モセスシテ多クハ逃散シケル、実ニ元親君臣トモニ四国ノ小攻合致サレテ、大軍ノ防キ様ヲ知ラサルコソ理リナレ」と辛辣な批判を加えている。
一方、秀吉のもとへは捷報が相い次いだ。秀吉は小早川隆景・吉川元長に宛てた七月二十七日付けの書状で「今度与(予)州新広(居)郡に於て一戦に及ばれ、金子始め多数討捕られ、首注文越置かれ候、誠に即時大利を得られるの儀、手柄之段申す計りなく候・・・・・・然れば宇摩郡内仏伝(殿)城先ず取巻るべく候、其子細は阿讃程近候条、諸事行等談合遂ぐべき儀これ在るの由候間、近道ニ尤も候」と隆景・元長の戦功をねんごろにたたえるとともに、次の主目標として讃岐国境ちかくの仏殿城の攻略を指示している。仏殿城を抜き、阿讃に在陣する羽柴秀長・秀次軍と連絡をはかり、前後から押し包んで白地城の元親本営を衝こうというものである。ともあれ、毛利輝元がその家臣に「高尾落去・・・両郡(新居・宇摩)残所なく退散候」と申し送ったように、高尾城の落城によって、東予における戦いは事実上終わった。高尾落城後、おびただしい戦死者を山麓の野々市原に葬った後、小早川隆景は自ら墓標を立てて「討つも又討たるるも皆夢なれや、はやくもさめり汝等が夢」と唱え、感慨に耽ったという。
―― 豊臣秀吉182合戦総覧より ――
(8) 合戦記
去る天正13年乙酉の春の頃、秀吉公羽柴筑前守たりし時、四国退治のため諸卒を差しむけらるる、当地は芸州毛利の一族小早川左衛門佐隆景を大将として中国勢三万騎を引具し、兵船数百艘に取乗りて発向せしむ。此事四方に隠れなく、高峠の騒動たとへて云んかたもなし、備中守子息虎竹は当時八才成けるか、虎竹幼少なれば、去年備中守卒去の後は、近藤長門守後見と成ける、急ぎ羽檄を飛ばして二郡の武士招集めて、扨、此度の大事詮議有へしと也、去れは、秀吉公のほこ先に当て幾程かたまるへき、大敵を見て旗を、あく事武士の習ひ、強而耻にはあらす、去年土佐へ人質を取られなから、又中国へ降る事も無下に口惜かるへし、此儀面々心中にうかひけれとも、他に譲りて詞にはあらはさす、扨又、長門守か心の中押はかられて不便なれは、満座鳴をしつめて居たりける。爰に金子備後守云けるは、小身の武士程浅間敷者はなし、昨日長宗我部に手を下げ、今日小早川に腰を折り、土佐の人質を振捨て他人の後見せん事、さりとては是非もなし、所詮眉をひそめて世を渡らんよりは、討死して名を後代にあらはすより外は有へからすとて、座敷を屹と見渡しけるか、似たる友とかやの風情にて、列座の人々兼て言合したる様に、誰もかく思ふとて皆々機嫌に入けるそ、只是高峠滅亡の時至れるもの也、去は、彼等は誠に小身の者共なれば、武士の家の本望とて、只今死するを知なから義によって命をかろんする事の優さよとて、聞者感涙をなかしけるとそ。
然而後に軍の評定有て勢揃有り、先つ金子備後守を始として、舎弟対馬守一類に真鍋佐渡守・野下右衛門助、麓の城松木参河守、其子新之丞、一族塩見三郎兵衛、岡崎の城に薦田四郎兵衛一族に上野五郎左衛門、入野の城に横尾山城守、渋柿の城に薦田市之丞、加地三郎左衛門、野田左京之介、下山一統、都合弐千八百余、其外大保木山に寺川丹後守一族に黒瀬飛騨守、此外土佐より聞及てかけつけたる人々を相加へて高尾の山城へ打立ける。此勢ひたゆますして皆々由々敷働を仕ける。鍋・□両城の者共催促に従はさるありしか、今度着到に備へ、又下山一統と云者は、今下山之是を尋ぬれ共不知也、其中にある年寄の言けるは、昔薦田の一家此所を領せし事有、然に下山一統と言は是れ薦田の一族共かと言ける。扨、西条の人々には、近藤長門守を始として其子彦七郎、徳永修理之亮、其子甚之丞、塩出紀伊守、其子善左衛門、黒岩に越智信濃守、三川に秦之備前の守、工藤兵部、難波江蔵之助、白石若狭守、丹民部、久門甚五郎、都合六百余騎、すべて日本国を引受る事なれは、千に一つも勝利有ましとて、家々に大樽かきすへ酒盛して、其身は最後の出立花やかによそひて、家々の旗を掲け、高峠へ篭りける。此者共有様は風まつ程の霞よろも危くこそ見へける。
去程に、高尾には麓に棚を振、在家の戸板をはっし囲として、夜はかかり火をたき、寄せ来る敵を待ちたり、案の如く、中国勢近付て、久留嶋・今治の沖より平地嶋竜宮山の辺迄押寄たり。数百艘の兵船に鑓を立、長刀を立並へけれは、海上忽に阿修羅城のことし、隆景諸卒に向って下知せられけるは、元来新居・宇摩の者共は、心飽迄不敵にして、士民下部に至る迄長き脇指をはいて、こぶしを握り他人の下風に立間敷をむねとすと聞へたり、率爾に敵の地へ乱れ入て能き者討すな、先高尾の本城を攻
落せよとて、先陣は三村紀伊守、庄野宮若丸、植木孫左衛門、軍勢一度に渚へ下りて高尾に押懸り、互に鯨波を上けける。敵味方大勢なれば其響いかつちの落つるかことくして、山岳是か為に崩れ、海岸須ゆに砕かるかと覚たり。軍兵互に其境へ出向て、先矢軍(いくさ)に時を移し、後には剣戦の勝負に成ける。
爰に宇高左馬之進・矢野久之丞・野田新九郎・今村八郎兵衛・大西平内等と云者、一騎当千の働をして味方の目を驚かしけるか、或は矢負、或は疵を蒙り、終に皆々討れける中にも、真鍋孫太郎と云精兵、二郡に隠れなき大兵の男あり、五町三町隔ててもかけ鳥下げ針杯を射落す名人なり。日来(ころ)の達者は此度の用にこそとて、小柴の陰に忍ひ寄り、能敵を心懸ける折節、主しは誰とも知らぬ共、壇匂の鎧に薄紫の母衣をかけ、白栗毛の馬に青統(ふさ)掛けて乗りたりけるか、手勢と見えて百騎計か中をしっしっと歩せける孫太郎是を射はやとおもひ、其間おほえの外へたたりけれは、鎧の高紐を迦して、重藤の弓の真中握り、胡ぐいより金磁頭を抜き出し、拾三束三ツ伏せ忘るるはかり引しほりて切て放つ、其矢あやまたす敵の胸板に当って血煙を出し、馬より逆に落ける。是を手始として、金子か一族に真鍋孫太郎と云者そ、請(う)けて見よとて、指詰め引詰散々に射けり、矢場に死するかたき拾二、三人也。寄手堪へかねて吾れ先にと引退ける、矢種尽きて後長刀をひらめかして敵の群がりたる中へ懸入て蜘手十文字に切り廻りけるか、深手数多負ける故次第につかれて、終に大勢に討伏られける、天晴大剛の者也と称美しける。
爰に今井玄蕃兼綱と云者有、今日は最後の軍とて、小桜威の鎧に薄紅梅の母衣をかけ、多勢の中に駈入て爰を専と働きける、尚より寄手五枚甲の緒を縮て、植木孫左衛門と名のりて、大手をひろけ飛ひかかって引組掛はっし、ひしめきける敵も味方も見物す。偏に相撲場のことし、兼綱力強かりけん、植木を岸根へ押付、首取て差上たり、味方はとっと悦ひける。兼綱運の極みにや、何国共なく鉄砲来り、胸板に当て、終に
天正十三年に浮世のきずなを離れてける。死骸灌木土中に埋ミ石をたたみ墓とす、今は榎木生て大木となりけり。
扨、丹民部は吹上六郎と引組、指違へて共に死しける、其墓同所に有り。爰に物の哀をととめしは、真鍋越後之助と言者の子に、兄をは孫九郎とて年十六歳、弟をは孫十郎とて十三に成ける。父戦場に赴く時、不便に思ひ堅く制して止めけり。然るに父の跡をしたひて、兄弟打つれ高尾へ来りける、父もせんかたなく指置、誠に栴檀は二葉より香きと言いしは彼等か事なるへし。去らは軍さ中半に孫十郎走り帰りて、父に向て泪を流して云けるは、兄の孫九郎こそ敵に打て向ひ首数多取て候得共、大勢の敵に打囲まれ、鑓に貫て死て候と言ける。父きっと睨て、今此時にのそみて未練の事を言者哉、急き兄の敵を討て参れとそ怒りける。孫十郎からからと打笑て取て返し、寄手の中へ走り入ると見へしか、其後行方不知成ける。父彼か後影を見やりて泪をはらはらと流し、南無阿弥陀仏と諸共に跡を追て懸入、共に討れけるとなり。扨、高尾の城は、白雲峰を埋み青岩道をさへきりけれは、味方小勢なりといへ共、寄手責あくんて見へける所に、城の後五、六丁へたてて小高き所有、寄手の中に新居見・木梨等、戸田・林と言者の勢三百人計にて切川の奥より岩を伝ひ、蔦をしたひて終に其所に至りて、鉄砲数百挺雨あられの降る如く放掛責けれは、兼て合図やしたりけん、大手の勢すわや時分能そかかれとて無二無三に取懸けたり、味方も爰を最后と防き戦ひける。されとも寄手は新手を入替入替、息をもつかす責ける。数度の新手に宗徒の味方過半討れ、敵も三百余騎亡ひける。里城を堅めける高橋美濃守も討死しける、大久保木を堅めたりし大久保四郎兵衛も責ほされたり、金子も心大剛の者なれ共、前後の大敵に一族郎党大分討れ、其身も甲の吹返し、鎧の菱縫を数多討れけれは次第によわり、叶はしとや思ひけん、城に火を懸け、猛火の中に飛入て腹十文字にかき切死しける。
去る程に、隆景、高尾落城の其日、吉祥寺の上成る往生か峰に登りて高峠を見渡しけるとそ。高峠には、兼て詮議して虎竹を保国寺玉翁和尚へ預け、土佐へ落しけり。譜代恩顧の者を七、八人相副えたり、扨、高峠軍兵共、各心底一意に相究て城に火をかけ、一騎も不残打て出ける。
―― 「澄水記」より ――
(9)戦国時代の四国主要城郭図
省略
(10)闘将眠る慈眼寺の歴史
慈眼寺の歴史は古く、今より約580年の昔、応永十三年(1406年、足利時代)に開かれております。 当時は金子城のあった時代で、場所は城山の北側でした。
天正十三年(四百年前、1885年)秀吉の四国攻略(天正の陣と呼ぶ)により金子城は落城し、その時の戦火に遭ってお寺も焼失してしまいました。
口碑によれば当時、城主の金子備後守元宅は東予全軍の指揮を取るため高尾城(西条市氷見)に行き、兄に代わって金子城を守っていた弟の対馬守元春は、落城後、戦で亡くなった人達の菩提を弔うため仏門に入り奥州(福島県いわき市平)の長源寺に行き、卓眼和尚の許で修行を積み、後に故郷の地に帰って生き残りの者や戦死した人達の子孫と力を合わせ、この戦で亡くなった将士の菩提を弔うため、金子城の館跡に一寺を建立し、松樹林正法山慈眼寺と呼びました。時は元和年間と伝えられており、また関奄本徹和尚(かんえんほんてつおしょう)は対馬守元春の後身といわれております。その当時のお寺は今の様な規模でなく、現在の庫裏は本堂兼住居であり、屋根も茅葺でした。徳川時代の後半になって、本堂、玄関、拝殿と次々に建立されて今の様な規模のお寺となりました。
次に宗派は焼失以前は臨済宗でした。現在の慈眼寺は親寺の長源寺と同じ曹洞宗です。本山は越前の永平寺と総持寺(横浜市鶴見)で、御本尊は聖観世音菩薩様をお祀りしております。
本堂の奥のお位牌堂には、歴代の住職および城主の金子備後守、ならびに共に討死にをした将士のお位牌をお祀りしております。
また本堂の裏には「天正の陣」の戦で亡くなった金子備後守と真鍋六人衆のお墓、岡崎城主藤田大隅守のお墓があります。また山の中腹には金子城家老=伊藤嘉右衛門の子孫の方達が建立した立派な供養塔もあります。
かくの如く慈眼寺は古い歴史と、落城の哀話を秘めた由緒のある古刹であります。
ーーーー愛媛県新居浜市西の土居町 正法山慈眼寺よりーーーー
(11)対照年譜表
省略
(12)天正年間の阿波情勢
省略
(13)秀吉阿波征伐略図
省略
(14)落人の道
南海通記に”阿波大西白地、予州路程記”の項がある。
九里 四里 二里 三里
西条へ←――川之江へ←――大西白地域――→池田へ――→重清へ
(伊予) (阿波)
戦いに疲れた落人や若年の者の集団は、小間のたびも東へと長宗我部の本陣を目指した、十三里である。しかし、夜間の行動に限られたであろうし、既に敵の手の金子城を避けねばならぬ。仏殿城は頼るに詮ない。恐々として大西白地への辿る里程は十三里。落人にとっては、短い距離でも遠く思えたに違いない。
頼る白地域も日本国中の軍勢を相手に勝ち目のない戦に、その去就に、動揺している。落人を保護し立て篭もる余裕はなかった。土佐落去を勧められたが、土佐国とて主戦場となる怖れがある。
天正十三年七月二十日前後のことであろう。土佐勢より得た情勢では、阿波岩倉城は秀吉の三好秀次の手中に陥ち、当地の土佐勢は悉く落ち去った跡らしい。土佐勢の満ち満ちて居るのは、この郡境までである。やがてここ一両日でこの勢いを退潮するのは必然。多くが土佐へ落ちる流れに逆って、この地の周辺に逼塞するか否か、重清城主は逃亡し、岩倉城も落城した。然し、岩倉城は、三好康長の旧領地である。つまり祖父や叔父の類縁に当る。落人達にとってはいわば”父祖の地”である。而して進攻する三好秀次(羽柴)は、三好家への養子である。両者にとって”父祖の地”は共感相通じはしないか。勝った武将の習いとしても遠縁の落人には酷なる筈はない。
併せて二従兄の孫太郎兼綱の流れを汲む弓の門弟も残って居る。落人たちは郷里の地に身体を癒した。落ち逃れて約二十里、山麓の庵所でも寝食を得たのであろう。
古い一領具足の者は少ないし、それも殆ど白地の方面に従軍している。旧領主の窮地人も居ない。落ち着くには好条件の数ケ月が続いた。
吉野川河畔の一望できる引き上がった阿讃の山麓である。
阿波へ流れた他の条件
○郡里村山麓部―――→蓮華院
‖
@阿波勝瑞屋形様の細川讃岐守持隆の祈願寺
‖
Aその当時三好義賢(実休)の縁故寺
○阿波の情勢
@中世からの細川、三好の被官達は、土佐長宗我部氏に徹底的に切りとられていた。
(――不在、逃亡、討死――)
A臣従した土豪 一領具足として給地は安堵 軍役負担 戦時陣中小屋掛従事
(――土地有力者不在――)
(15)落人の譜後記
秀吉の四国征討の目的は、打倒長宗我部氏にあった。然し、討死することもなく土佐一国の安堵を得た長宗我部氏に比べて、盟約を重んじて、結束した予州新居、宇摩二郡の石川、金子、真鍋らの諸豪は、全て、玉砕の悲運に終った。
乱世、群雄割拠して、自己保身に、勢力拡大に、願望する世相の中、敢えて元親との盟約に殉じた将士の血脈は、変転する近世封建制の前に、新しい社会組織の中に、全く埋もれてしまった。
ただ後世歴史に残るものは、
ア.下剋上的勢力の拡張
イ.各領主婚姻による結束と保身
ウ.権力者への朝夕の如き人質の慣習
エ.落城と落人の惨状
等が強兵どもの足跡(蹟)として書留められ、僅かに往時を偲ばれるのである。
総じて落城と落人の惨状は悲運であり乍ら、現在は全く埋もれてしまってただ幻の如く、吹く風に往時を思うのみである。
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